僕はひとつのことに継続して取り組むことが苦手だった。昔からそうだった。よく言う、「熱しやすく、冷めやすい」の典型。そんな人間でも、獲得したいもの、成し遂げたいことはあって、そして、それには継続した一貫性のある行動が必要なことも薄々気づいていた。

7つの習慣、思考は現実化する、アドラー心理学、引き寄せの法則などの成功哲学本はいくつも読んだ。それでも、ありたい自分になっている実感がない。であるなら、これら書物のエッセンスをもう一度ふり返ってみてはどうか。知識を信念に変えることができたなら、今までとは違う景色が見えるのではないか。今、そんな思いに駆られている。だから、文章化してみることにした。そして今、この記事をタイプしている。

これは、まだ何も成し遂げていない人間が、過去の経験や思考、読書を通して仕入れた知識を再編成、再構築し、行動を通して自己の目標を現実化する方法を模索、検証、証明しよう。という試み、その全記録である。

 

思考が先か。行動が先か。という個人的問題。

常々考えていたことに、行動と思考にヒエラルキーはあるのか。という問いがある。そして今現在(2017年8月)の僕の答えは、「思考>行動」である。前向きな思考ができて、初めて前向きな行動がとれる。前向きな行動がとれている=すでに前向きな思考になっている。という理屈である。
嫌だけどやるしかないから、やる。これも十分前向きな思考をしている。と言うのは、逃げること(やらないこと)と、逃げないこと(やる)を比較してやるを選んでいる。そこに前向きな思考、意志のエネルギーを行動前にすでに手にしているからである。

では、どうやって前向きな思考を維持すればいいのだろう。

 

選択のちから。その行使。

僕らは、毎瞬毎瞬、外部からの刺激にさらされている。そしてその刺激に無意識的にせよ、意識的にせよ、何らかの反応を返している。刺激→反応のモデルである。
7つの習慣ースティーブン・R・コヴィー著ーではこの刺激と反応の間に「選択」という余地がすべての人間に備わっていると述べている。刺激→[選択]→反応という流れだ。刺激と反応が不可分に対になっているのではなく、自己選択という無限の可能性の場にいる。どんな反応をするかは、刺激ではなく、あなたの選択にかかっている。ということである。力強い魅力的な話だが、次なる疑問は「良い選択をする時と、(そうだとわかっているのに)悪い選択をするときがあるのはなぜか」ということだ。
なぜ、心は負けてしまうのだろう。

 

「今の状態」に敏感であれ

刺激・選択・反応モデルの、選択段階に注目すると、それは「今の自分」に選択の全権が委ねられている。ということである。「今の自分の状態」。言い換えれば、「今の気分」だ。気分が良ければ、前向きな選択をとりやすい。逆に、気分が悪いと、やけくそ的に非生産的な選択を採用しやすい。なるほど。理にかなっている。
では次に、「良い気分はどうやって作るのか」
これを考えていきたい。

 

言葉と身体と注目点

自己啓発界では、いい気分を得るプロセスを次のように説明することが多い。

①ダイナミックな身体の使いかた
②前向きな言葉
③すべての事象が含有する、自分にとって価値のある(有益な)部分の発見と受容

これをすると、自然と良い気分になる。というのだ。
僕は力を感じる時、ポジティブな思考になっている時、行動したいという気分になっている時に、どんな身体の使い方をし、どんな言葉を話し、出来事をどんな風に見ていただろう。と考えたとき、確かに①から③の状態であることが多い。では、①から③を実施すればよい気分をキープでき、エネルギー高く行動が継続するのか。と思いきや、事はそう単純ではない。①から③を実施するのはつまりは「行動」である。それが「続かない」のが問題だったはずだ。このままでは、①から③も「継続不可」となるのは目に見えている。つまりはもっと根源的な部分を考えていく必要がある。ということだ。

つづく

 

アルフレッド・アドラーという、大戦の世を生きた心理学者がいる。彼は言う。人が行動しないのは、行動しないに足る個人的な目的があるからだ。と。

それを踏まえて、自分の実生活に当てはめて考えてみることにする。
行動がとれなくなったときに湧く思考で頻度の高いもの。
それは僕の場合、「これを続けて本当に意味があるのだろうか」というものだ。この思考の誘導先は当然、意味がないかもしれないから行動しなくてもいいよね?である。「その行動の結果がもたらす将来の喜び」と、「今、行動する苦しさ」を比較して、苦しさが勝っている。アドラーに言わせれば、「今」楽でありたい。という目的があるのだろうか。
ここに注目したいキーワードが浮かびあがった。
「今」と「将来」である。

常に「今」しかない

僕は現在、過去、未来という時間概念に対してあまり深く思考してこなかったように思う。今、あらためてこの対象を注意深く考えてみると、今までとは違う景色が見えてくるかもしれない。
2017年現在の人類の化学では、四次元以上の高次元の存在は依然として可能性の中だけだ。(ある特定の、宇宙の英知と交信できちゃったりインヴィジィブルなものが見えちゃったりする新人類は除く。)
多くの場合、時間は川の流れのように幅を持った帯状のものとして解釈されていて、だからタイムスリップやパラレルワールドのような概念も生まれるのだと思う。そして、その考え方が示唆するのは過去、現在、未来が横の関係として等価に同時共存できる。というものではなかろうか。昨日と今日と明日が等価に比較できる存在のように考えられてきたのではないだろうか。
しかし、実体験としての時間の把握を考えたときに僕が一番リアルに体感できるのは紛れもなく「今」だけである。「昨日感」とか「明日感」など感じたことはない。
これは明日やろうと思った時の「明日感」と、日付が変わって今日になった「明日感」は明らかに異なる。という意味だ。後者にはもはや「明日感」は存在しない。あるのは「今」の感覚だけである。
アドラーは人生を「今ここ」という「点」が連続しているものとして捉えよ。と語っていることを思い出す。

過去はもうない。未来はまだない。あるのは、今だけ。

 

 

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